高嶺ルビー物語 ※写真はクリックで拡大してご覧いただけます。
高嶺ルビーが誕生するまで
1970年代後半 ヒマラヤで。紅花のそばとそば博士の出会い
 信州大学農学部に「そば博士」の異名をもつひとりの学者がいました。現名誉教授の氏原暉男氏がその人です。 氏原先生は、信州大学在学中からそばの栽培・品種改良の研究を行い、またその研究を地域の活性化につなげようと努力をしていました。 その努力は日本の国内だけではなく、遠く、カナダ、フランス、ネパール、中国、モンゴル、タイなどにも広がっていました。
 大学定年後の現在では、世界から麻薬を撲滅させることをめざし、国際協力事業団を通じて、 ケシの世界最大の産地である中国の国境付近で、ケシの栽培のかわりにそばの栽培を定着させる活動に協力しています。 ケシの栽培をソバづくりに変えることで、その村は健全になり、そして世界の麻薬の流通も少なくなることを願っての活動です。
 もとよりそばは、アジア大陸のほぼ全域で古くから栽培されている作物です。 たとえばヒマラヤ諸国においてもそばは主要な穀物で、なかでもネパールは栽培が盛んな地域のひとつです。 1970年代後半、このヒマラヤで氏原先生は偶然に紅い花を咲かせるそばに出会いました。 その紅い花を咲かせるソバは、ヒマラヤの8000メートル級の山ダウラギリ峰とアンナプルナ峰に挟まれたムスタン県の秘境にありました。
 ムスタン県は、標高3800メートルというとても高い場所にあります。 標高が高いゆえに、太陽からふりそそぐ紫外線はとても強く、植物にとってはとても厳しい自然環境で、イネやムギはもちろん、普通のそばも満足に育つことはできません。 しかし、そのそばだけは、その厳しい自然環境でも立派に紅い花を咲かせていたのです。
 これはポリフェノールという物質や抗酸化物質をたっぷりと含んでいることで、日がさのように紫外線から身を守ることができ、 この土地にしっかりと根づき紅い花を咲かせていたのでした。
「この紅い花のそばを、なんとか日本で咲かせることができないだろうか」
この時、氏原先生がこんなかすかな夢を抱いたのが高嶺ルビー誕生の始まりとなったのです。
1988年 信州伊那谷で。そば博士と若き研究者の出会い
 「紅い花のそばを日本でも咲かせたい」というかすかな夢を抱いてから10年あまりが経った頃、 氏原先生の研究室に信州大学を卒業したひとりの会社員が訪れました。 この会社員は信州大学を卒業して、古くから伊那谷でオフィス家具の開発と製造を行っているタカノという会社に就職をした新入社員であり、 大学では森林学を学んでいた若き研究者でもありました。 タカノの社長は「お世話になっている地域に恩返ししたい」という願いを持っており、この若きひとりの社員をこの氏原先生の夢の研究に協力させることにしたのです。
 二人で始めた研究の第一歩は、まずネパールのその現地を訪れることから始まりました。 日本から飛行機で大陸に渡ったあとは様々な移動手段を使い、現地に近づくとロバの背中に揺られる事もありました。 最後は自分の足が頼りです。 ようやく現地にたどり着いたときは、すでに日本を離れて1週間の時間が経っていました。
 ムスタンの秘境に着いてからは休むまもなく、限られた時間の中でその土地の気象や土壌などあらゆる環境調査を行い、 また種子を採集し、日本に持ち帰りました。
 持ち帰った種子をもとに、この日から研究が始まったものの、それは試行錯誤の連続でした。 信州大学の農場に蒔かれた種は、ヒマラヤの地に咲くような紅い花をなかなか咲かせてくれません。 花の赤い色は、気温や環境によって大きく左右されてしまい、どうしても薄い色にしかならなきことがなんども繰り返されたのです。
 度重なる品種改良の末、納得のゆく紅い花を咲かせることができるまでに、数年の歳月が流れました。
ようやく納得のゆく紅い花を咲かせる事が出来るようになったそのソバは、1993年1月に「高嶺ルビー」の名称で品種登録(農林水産省品種登録第3347号)されました。